『フェミニン・エンディング』

本棚整理も兼ねて、読んだ本を少しずつまとめてみる。書評ではなく、メモ。

 

『フェミニン・エンディング 音楽・ジェンダーセクシュアリティ』(新水社)1997

著:スーザン・マクレアリ 訳:女性と音楽研究フォーラム 

 

音楽におけるジェンダーセクシュアリティの問題を扱った、出版当初はかなり新しい視点で書かれた評論集。

オペラにおけるジェンダー表現やミソジニー音楽理論の中に潜む構造とジェンダーの関係など、(クラシック)音楽の中のそれまでの「当たり前」を揺るがす内容になっている。

実際、この本が出版されたとき、大論争が起こったらしい。

 

ラモーは自分の調性理論の正当性を示すために、旋律を女性性、和声を男性性と結びつけた。

和声=理性的。旋律=気まぐれ。で、和声が旋律を抑制する。ということらしい。

この本の題名「フェミニン・エンディング」も音楽用語だ。日本語ではそのまま「女性終止」。最後の音が強拍に来るのは「男性終止」で、弱拍に来るのは「女性終止」になる。

強/弱。

男性終止は客観的で論理的な表現とみなされ、女性終止は主観的でロマン的な表現で好まれる。

音楽理論家などが系統的な論述において、「女性らしさ」「男性らしさ」をひとつのよりどころとするのは珍しいことではない。現在でもよく見かけるし、女性作曲家を悩ます種にもなっているように見える。

 

西洋文化においては、音楽そのものが理性を欺き、欲望を換気する他者である。そのために、クラシック音楽はもっとも身体の否定にこだわり、エロスの否認を儀式的に行う。(p128)

クラシックコンサートの客席で踊ったり、首を振ったりする人はいない。たまに少し動いている人もいるけど、周りから迷惑そうな目で見られている。

演奏においては、身体の超越にこだわる。指はどこまでも伸びるように。音程は少しも外さず機械的に。もっと大きい音を、もっと大きい音を、と楽器は発展してきた。

身体を否定し、超越し、形而上学的なものとの関わりを強調することで、己の優位性を示してきたクラシック音楽

その犠牲になってきたのが女性や、西洋以外の文化圏、そしてクィアだった。

 

この本を手に取った頃は少し音楽から離れていたので、ほっとした自分がいた。

今はまた音楽と共にいる。家父長制の檻の中に、身体を半分入れた状態で。

考え続けなければならない。どのように音楽をやっていくか。向き合っていくか。抗っていくか。